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【目次】
ごあいさつ (2020.3.30)
第1回 (2020.3.30)
第2回 (2020.4.1)
第3回 (2020.4.16)
第4回(2020.4.21)
第5回(2020.5.13)

第5回

『バンザイなこっちゃ』(2005年 ゴマブックス)
「ニワトリ情話」(P154~159)より

あれは私が小学五年生の頃だったろうか。当時私たち日本人の食生活は、今と比べれば月とスッポン、本当に質素であった。質素というよりは、貧しかったと言ったほうが当たっているかもしれない。肉を口にすることなどめったになかった。
今にして思えば、野菜や魚を中心にしたバランスのとれた食生活だったという事になるのかもしれないが、「毎日、好きなだけ肉が食える生活だったら、どんなに素敵だろう」と子供ならだれもが夢見ていた。大人だってそうだったろう。栄養過剰の肥満で悩む人など見た事もなかったし、低カロリーやダイエット食など、この世に存在する事すら知らなかった。
こんな時代背景の中で、あの忌まわしい事件が我が家に勃発したのである。
ある日、お祭りの縁日で三歳年下の弟がヒヨコを五羽も買ってきた。育てばヒヨコはニワトリとなって卵を産んでくれる。我が家は田舎にあるキリスト教会の牧師家族。その暮らし向きは、決して豊かとは言えない。両親、姉と弟、祖母そして私の六人家族が、何とかやっておるのでありました。
そんな我が家に、卵を産むニワトリがいれば助かるのではないかと、弟は子供なりに知恵をしぼったのであろう。お祭りのために親がくれた、なけなしの小遣いをはたいて買ってきた五羽のヒヨコ。泣ける話です。けなげであります。それに比べて兄は何をしとるんだと、両親が思ったかどうかは知らんが、縁日で買ったスルメの丸焼きを呑気にかじりながら帰って来た私は、何となく家族の視線が冷たかった事を記憶しております。(そんな酒飲みのアテみたいなものを、小学生の牧師の息子がかじりながら歩くな)
ところが、弟が買ってきたヒヨコは全部オス。ご存知のようにオスは卵を産みません。エサ代がむなしく消えてゆくばかり。おまけにコケコッコー、コケコッコーと朝も早よからそのうるさい事、うるさい事!あれほど弟に対してやさしく温かかった両親のまなざしがいつしか、「余計なものを買ってきて」という底光りする冷たさに変化してゆくのを私は見逃しませんでした。これは何かが起こる。そしてついに、あの事件は起こったのであります。
コケコッコーの騒音公害にたまりかねた父は、なんと近所のお肉屋さんに頼み、五羽のニワトリをきれいに肉にさばいてもらったのであります。私の父はキリスト教会の牧師さん。愛を説く牧師さんが、こんな事をしていいのでありましょうか。
その日、学校から帰って来た私は母から事情を打ち明けられ、弟には何もいうなときついお達しを受けた。さて、遅れて帰ってきた弟は知らぬまま食卓へ。今晩の晩ごはんはトリのスキ焼きだと聞いて喜ぶ事、喜ぶ事。家族一同ウキウキワクワク、よだれを垂らしながら、トリのスキ焼きに突撃したのであります。
弟の事を思えば、喜んでいる場合ではないという思いがチラッと頭をかすめたが、肉の誘惑には勝てまへん。もうそんな事はどうでもええ。やっぱり肉はうまいなあ!食卓は大いに盛り上がったのであります。しかし、ついに恐れていた瞬間がやってまいりました。
「ところで僕のニワトリはどこへ行ったの」
一同シーン。あれほど楽しげに盛り上がっておった岡林家の食卓が、いつしか凍りついてゆくのであります。うまいうまいと喜んで食べていたスキ焼きが、愛するニワトリの変わり果てた姿である事を知った弟は、うつむいたまま、黙りこくってしまたったのであります。
目には涙が溢れそうになっておるではないか。重苦しい沈黙が茶の間を支配します。家族一同は救いを求めるように父を見つめたのでありますが、父はバツが悪そうに固まったまま。柱時計の音だけが不気味に響き、ああ岡林家の崩壊かと思われたその時、突如弟がうめくように叫んだのであります。
「やっぱり、う、うまい!」
そしてものすごい勢いで、再び食べ始めるやおまへんか。もうちょっと頑張って涙でも落とせば小遣いでももらえたんい、ホンマにアホなやつです。かくて再び食卓は盛り上がり、笑い声がはじけ、その場は何とか収まったのだが、ハッピーエンドになったかというと、さに非ず。これには続きがあるのだ。
五羽分のトリ肉。これはかなりの量である。冷蔵庫のない時代、とにか腐る前に食いきるしかない。今日もトリ肉、明日もトリ肉。どこまで続くトリ肉地獄。なんぼ肉がありがたい時代とは言え、物には限度というものがある。ええ加減にしてほしいが食わねばならぬ。もういけません、かんにんしてください。トリ肉を見ただけで吐き気がしてくる。
やがて、食べきれずに置いてあったトリ肉が腐り始め、ついに我が家は死臭漂う悪魔の館となり、家族一同ノイローゼ寸前。ようやく裏庭の隅にあるゴミ捨て場に、腐った肉が捨てられてこのドラマはジ・エンド。かくてバチ当たりな牧師家族に、神の怒りは下ったのであります。
その後長い間、私はトリの腐った臭いが鼻について、トリ肉が食えなくなってしまた。おもしろいというか、悲惨というか、忘れられない思い出である。
お肉など、ありがたくもなんともなくなってしまった時代では、こんなおもろい事件は起こりようもない。恵まれ、豊かになればなるほど、感動やおもしろさというのは少なくなってしまうのであろうか。手応ええのある日々というのは今や無いものねだりにしか過ぎないのであろうか。トリ肉のトリ過ぎでえらい目にあったという一席。過ぎたるは及ばざるが如し。
現代は、余りにも過ぎたる時代ではなかろうか。


第4回

『かんとりーソングス』(1984年 芸文社)
「石ケン論」(P64~65)より

ここは某TV局のスタジオ、奥様向け番組のゲストコーナー。
アナウンサーと岡林信康が向かい合っている。

アナ 本日のゲスト、岡林信康さんです。岡林さん、どうぞよろしく。
岡林 どうもどうも(ややキンチョウ気味)。
アナ えー、お聞きしたところによりますと、岡林さんはお風呂に入っても石ケンをお使いにならないということなんですが、本当なんでしょうか。
岡林 ハイ。私はここ三年間、石ケンを使ったことがありません。
アナ ヘェー、またどうして、そのような。そんなに生活が苦しのですか(あわれみの表情)
岡林 ムッ!シ、シッケイナ!いくらレコードが売れていないからといっても、そこまで追い詰められてはおらん(ドンとテーブルをたたく)。
アナ まあまあ、そうコウフンなさらないでください。しかし何でまた、そのようなことを
岡林 それはですな、ちょうど三年前、ある書物にこんなことが書いてあったのですよ。要するに人間の皮膚には汚れを外に排泄しようとする能力がある。セッセとゴミを皮膚の表面に運び出しておるわけです。だから、皮膚の表面に運び出された汚れをただ洗い流せば、それで充分に清潔になる。と。ところが石ケンをぬりたくってゴシゴシやると、たしかに汚れは完璧に落ちるのですが、石ケンの力で皮膚の奥の汚れまで完璧に洗い出してしまうため、今度は逆に、汚れを表面に運び出そうとする皮膚の動きが弱まってくるというのです。自分たちが働かなくても石ケンが汚れを根こそぎ洗い出してくれるから、皮膚の働きが退化してしまうらしいのですな。
アナ フーン(疑わしそうに)。
岡林 まあ例えて言えば、汚い話で申し訳ないんですが、石ケンで体を洗うことは浣腸をして排便することと似ているんですよ。
アナ ホーッ、浣腸ねぇ(急に瞳を輝かして)。
岡林 たしかに浣腸をすれば、腸の中にたまっておる便は完璧に排泄されます。しかしですよ、あんた、そんなことをしょっちゅうやっておったら、どうなります。体外に便を排泄させようとする腸の機能は、ドンドン低下し、そのうち浣腸しなければウンコがでないことになってしまうのです。腸の働きが弱り、それこそ、ひどい病気になるでしょう。これと同じことなのです。清潔にしたいため石ケンを使っておるのに、そのことがかえって皮膚の働きを弱め、生き生きとした皮膚を死んだツヤのない皮膚にしてしまうのだから、世の中、皮肉なもんですなあ。
アナ (岡林氏のモジャモジャの頭やひげ面を気味悪そうに見ながら)なるほど。まあ、理屈としてはよくわかるのですがねぇ。
岡林 あなたは、まるで私をアカのかたまりのように見ておるが、そんなに疑うのなら、もっとそばに来て嗅いでみたまえ(アナウンサーのそばににじり寄る)。
アナ (一瞬ひるむが、恐る恐る岡林氏の体を嗅いでみる)本当だ。確かに思ったほどひどい臭いはしませんね。しかしやっぱり何か臭いますよ。
岡林 あのねアンタ、人間は生き物ですよ。動物ですよ。いろんな生き物にはその生き物特有の臭いがあって当たり前でしょう。人間が人間の臭いを無理やり消し去って、薬品の臭いを漂わせたほうがいいというのか。このバカタレ!(今にもつかみかかりそうになる)
アナ 待ってください、岡林さん。実はあなたから、さっきニンニクの臭いがしたのですよ。それを言いたかっただけなのに・・・。
岡林 (ここでハッとして)失礼、実は昨夜、王将のギョーザを食べすぎたのだった(力なくうなだれる)
アナ いいですよ、いいですよ、そんなに落ち込まないでください。話を本題に戻しましょう。要するに、岡林さんは世の中に石ケンは必要ないと、こうおっしゃりたいのですね。
岡林 いやいや。決してそうは言ってませんよ。
アナ エッ!?
岡林 あわてないでいただきたい。僕は世の中から石ケンをなくせとは言っておらん。石ケンは便利なありがたいものだ。水やお湯では洗い落とせない程、ひどく汚れている時に、やむをえず使う薬品なんだ。しょっちゅう体にぬりたくってゴシゴシやるのはキケンじゃないか、と言いたいだけなんだ。
アナ クドイようですが、本当にお風呂のお湯で洗い流すだけでいいのですか。
岡林 そう、軽くお湯で流すだけ。ゴシゴシこする必要もない。ただ断っておくが体をふくタオルはかなり臭いますぞ。
アナ ほおー!!
岡林 要するに、汚れがタオルに移るわけで。タオルは生き物じゃないから、いくら石ケンで洗っても大丈夫。石ケンで洗うのは人間の皮膚じゃなくタオルの方にしましょう、というわけだ。
アナ なるほど。
岡林 要するに、私が言いたいのは、石ケンだけにかぎらず、現代人はあまりにも機械や薬品などに頼りすぎて、人間の体が本来持っておる力を殺したり弱めたりしてしまっているのじゃないか、ということなんですよ。こういうことを続けていく限り、世の中決して楽しくはならないと思いますね。
アナ なるほど。貴重なお話、どうもありがとうございました。

追記
なお、このTV番組のスポンサーが某石ケン会社であったため、番組終了後、トラブルが発生し、風の便りによると担当ディレクターが飛ばされてしまったとのこと。岡林信康のTV出演が極端に少ないのは、どうもその事件の影響らしい。


第3回

『バンザイなこっちゃ』(2005年 ゴマブックス)
「ふたつの顔をもった横綱」(P44~50)より

子供の頃は、結構すもうが強く、私より体の大きい友だちを投げ飛ばしては、得意に
なっていたものである。当時のスポーツと言えば、野球かすもうを指すぐらいすもうの人気は
高く、子供向けの雑誌の表紙は、大抵プロ野球か力士によって占められていたのではないだろうか。
学校では、昼休みともなると校庭や体育館、教室の片隅ですもうを取る生徒も多く、現在の低調な
すもう人気からは想像もできないような光景であった。
私は小学五年生の時、友だちから見せてもらったすもう雑誌のグラビアに写っていた栃錦が、
他の肥満した力士に比べて、とてもスマートでかっこ良く見えたのでいっぺんに好きになり、以来
まわりも驚くほどの栃錦ファンとなった。その当時の私の写真を見ると、下くちびるをグッと突き出した妙な表情で写っているものがある。栃錦の表情を真似ているのである。と言うよりも、本人は栃錦になっているつもりだったのである。それほど好きだったのだ。
大型力士による、力と力のぶつかり合いが全盛だった当時、やせて小さかった栃錦は、多彩な技を繰り出す技巧派として、小兵ながらも横綱に昇りつめ、近代ずもうの開祖として人気が高かった。しかし、私がファンになった頃から低迷が始まる。年齢と共に体重が増加して、思うように動けなくなり、技の切れ味も鈍り、引退がささやかれるまで追い詰められていった。変化や切れ味を武器とする力士が、動けなくなってはおしまいである。
優勝どころか、勝ち越しがやっと。九勝六敗が多かったので、“クンロク横綱”などと言われたりもした。「信ちゃん、栃錦は弱いやないか」同級生にからかわれる度に、グッと下くちびるを突き出して耐える私。栃錦ファンはつらいよ、という日々でありました。
彼が六度目の優勝をした時は、明らかな行司差し違えで拾った勝ち星もあり、当時はやっていたメロドラマに引っかけ「よろめき優勝」などとやゆされ、恐らくこれが栃錦最後の優勝であろうといわれた。私もそう思っていたので、すもう雑誌のインタビューで「双葉山関の十二回優勝が目標だ」という彼の言葉を知った時は、「なんぼなんでもそりゃ無理や。人生をなめたらあかん。人生というものはそんな甘いもんではおまへんで」と思わず意見したくなったものだ。(そんな子供どこにおるんだ)
ところが、二年余りの低迷から、奇跡のように栃錦は復活して大活躍するのである。特に引退前の約二年間は十三場所中、十五戦全勝一回、十四勝四回、十三勝一回、十二勝三回、そのうち優勝四回というものすごさ!
一体何がどうなったのか、子供の私にはさっぱり分らんが、今日も勝った又勝った、ああめでたいなめでたいな。下くちびるをグッと突き出した信ちゃんは、得意満面で登校するのでありました。引退寸前だとささやかれていた栃錦は、彼より少し遅れて駆け昇って来た若乃花と名勝負を繰り広げて栃若時代を築き、二人で優勝を分け合うような状況は約二年間続いた。
結局、栃錦の優勝回数は十回であったが、もし若乃花がいなければ、その回数は二十回近くになていたのではないだろうか。これた当時としては大変な記録である。
実は栃錦は、体重が増えて動けなくなった時、その体重を利用して相手を一気に土俵の外にもってゆく、押しずもうへの転換をはかっていたのである。変化技を多用する技巧派にとって、体重の増加はマイナスでしかないのだが、彼はそれをプラスに転化しようとしたのだ。
すもうに限らず、今までやっていた形を変えるというのは、大変な事である。
まして横綱ともなれば、成績が悪ければ即引退。その重圧の中で彼は変身をやり遂げ、押しずもうの栃錦として、見事に復活したのである!
栃錦よ、あんたはえら~い!!
彼は、全く違う二人の栃錦を生きた事になる。私は自分の音楽スタイルを、何度も変えてきた。それはボブ・ディランの影響だと、多くの人に指摘されたし、私もそれを否定はしない。
しかし、変化してゆく事を恐れない勇気を与えてくれたのは、ひょっとしたら子供の頃夢中になった栃錦かも知れないと、最近よく思う。
子供の頃夢中になったものから受けるインパクトの強さは、計り知れない。栃錦という素晴らしい力士に夢中になれた私は、本当に幸せだった。
さて栃錦と同じ時代、吉葉山という横綱がいた事を覚えておいでだろうか。美男力士として、女性に人気はあったが、とにかく弱かった。優勝は一度きり。それも大関時代のもので、横綱になってからはゼロ。
横綱在位十七場所中、休場が七回もある。フル出場した十場所のうち、九勝六敗や八勝七敗で二ケタ勝てなかった場所が四度。正に惨憺たる成績で、「こんな弱い横綱見た事ない」である。
ある場所、十四日目ですでに十二勝をあげていた栃錦が千秋楽、吉葉山に敗れる番狂わせがあった。
明らかに、吉葉山に同情した栃錦の無気力ずもうであったが、栃錦は批判されるどころか、人情家として称賛されている。要するに、それほど吉葉山が弱かったという事。なんでこんな弱いヤツが横綱なんだ、と子供心にも納得がいかず、吉葉山が栃錦に負ける度に、さまあ見やがれと歓声をあげたものである。
ところが数年前、ある雑誌で吉葉山に関する驚愕の事実を知るところとなる。
それは「吉葉山はひょっとしたら、双葉山を超えるかも知れないほどの力士であった」と書かれていた。
そんなアホな、である。しかし読み進むうちに、私は言葉を失くしていた。
「彼は第二次大戦で兵隊に取られ、大陸戦線を約六年間もさまよう事になる。その時負った貫通銃創の後遺症に、生涯苦しみ抜いた。もしこの六年間のブランクと、貫通銃創の大ケガがなければ、恐らく双葉山をしのぐ大横綱になっていただろう」
読み終えた私は、しばらく呆然としていた。そしてなぜか泣き出したのである。何という事だ。何も知らずに彼を軽蔑していた私は、何という愚か者だったのだろう。勝負の世界に「たら」は禁物である。
しかし吉葉山の場合、この「たら」は限りなく真実に近い。致命的なハンディにもかかわらず、現に彼は横綱にまで達したではないか。しかも三十三歳という高齢で。
「なぜこんな弱いヤツが横綱なんだ」と一度父に聞いた事がある。父はウーンと困ったようにうなりながら、結局何も答えてくれなかった。戦争の傷跡が、まだそこかしこに残っていたあの頃。戦争犠牲者である吉葉山の苦悩を、子供にどう説明したものか。「ウーン」と言って黙りこくってしまった父の気持ちが今、分かるような気がする。
私の吉葉山に対する考え方は一八〇度の大転換を遂げた。誤った吉葉山像を抱いたままでなくて、本当に良かった。あの時の涙は、ホッとした喜びの涙だったのかも知れない。
私にとって吉葉山は、今では栃錦と並んで輝く大スターである。もし吉葉山に会えたら、私はためらう事なくこう言うだろう。
「吉葉山関、私はあなたの大ファンです!」


第2回

『かんとりーソングス』(1984年 芸文社)
「縁日から身を起こし、ついに多摩川べりに一大帝国を作り上げるに至ったヒヨコたちの感動奮戦記。サラリーマン必読の珠玉の一編、ついに公開!」(P31~34)より

たしか多摩川ベリだったと思うが、野性化したニワトリたちが群れをなして生活しているという記事を何かの雑誌で読んだ記憶がある。縁日の夜店か何かで、ペットがわりに買い求められたヒヨコが、成長して、手におえなくなったあげく、捨てられたことが、そもそもの初めらしい。
無情にも捨てられた、夜店出身のかよわきニワトリたちは、それでも見事に野性本能をとり戻し卵を産みヒナを育て、いくつかの群れに別れて、そこにひとつのニワトリ帝国をつくったというのだ。野良犬や野良ネコの襲撃から身を守るため、夜はかなりの高さがある大木の上で寝るらしい。黄昏があたりを包み始める頃、何十羽というニワトリが見事に空を飛び、大木の枝に舞い降りる姿は、まささに幻想的、感動的な光景だという。
ニワトリほど、人間の手によって改良(?)が加えられ、その野性本能力奪われてしまった生きものもまた珍しいのではなかろうか。
一日中、電球をつけ、夜を奪われた鶏舎の中で、ひたすら卵を産む機械としてうごめく姿は、とても鳥とは思えない。せまいゲージの中に閉じ込められ、ひたすらエサをつめ込まれ、超肥満体の肉塊となりはてたブロイラーに、申し訳なさそうについている羽が、何とももの悲しい。
しかし、かように徹底的に、人間に都合のいいように改良されつくされたニワトリでさえ、ちゃんと空を飛べるようになるとは、何たる素晴しいことでありましよう。彼らにも苦しい時期があったに違いない。ニワトリ本来の姿にひき戻そうとする彼らの内に宿る”力” と、家畜化され、ペット化され、自らエサをとる能力さえ奪われた “もうひとつの己れ”との間に、想像を絶する葛藤があったに違いない。

いつの間にか私が
私でないような
枯葉が風に舞うように
小舟が漂うように

私がもう一度
私になるために
育ててくれた世界に
別れを告げて旅立つ

信じたいために
疑い続ける
自由への長い旅をひとり
自由への長い旅を今日も

一九六九年に書かれた岡林信康の名曲(!)“自由への長い旅”——そうだ、きっと多摩川ベリのニワトリたちも、この歌を口ずさんだに違いない。この歌を口ずさみながら彼らは生きつづけたに違いない。
しかし、自らの力で野良犬や野良ネコから身を守り、エサをさがし求めていくしかない多摩川ベリの苛酷な自然は、ついに彼らの眠れる”何か”を呼びさまし、彼らを家畜化される以前のニワトリ本来の姿に呼び戻してくれたのだった。
ここに彼らのアイデンテイテイは確立された。
彼らの顔は、まさに猛きん類の顔をしているという。縁日の夜店出身の甘ちゃん顔ではないのだ。
——わたしは家畜でもペットでもない。私はニワトリだったのだ。わかったか人間ども!!
自信と誇りにみちた顔なのですぞ。
それは、やっと己れを確認することのできた、今私は私を生きているという境地に達した哲人、行者、悟りの人にも似て神々しい。
この話は、僕に希望と勇気を与える。
高度に発達した文明社会において、我々は自らが動物であるという意識さえ、持てなくなっている。便利な道具や機械に囲まれ、生身を使って自ら創意工夫することが本当に少なくなってしまった。 我々は自らを文明というオリの中で暮らす家畜としてしまった。自然のリズムを遠く離れ、
底なしのドロ沼のょうな迷路に入り込んだのだ。
そして、この便利な文明生活の水準を維持するには、もはや核エネルギーに頼るしかない。原発をたくさん作らないかぎり、この便利な文明生活は維持できないのだ。反原発、反核という前に、我々はもう少し、自らの手、足、体を使う生活を始めなければならないのではないか。生身の体を
使う生き方を創り出していかなければならないのではないか。
そうしていかないかぎり、核エネルギー、原発に頼るしか道はないだろうし、その道の果てにあるものは、おそらく超肥満の肉のかたまりに、申し訳なさそうに小っちゃな羽をつけた、うらさびしいブロイラーにも似た、グロテスクな私たちであるに違いない。
何も原始時代に戻ろうと言っているのではない。そんなことできるわけはないし、する必要もない。人間には他の動物にはない、人間だけの特性がある。道具や機械はありがたいものだし、文明の恩恵には心から感謝したい。しかし、人間という動物にとって命にも等しい、水や空気を汚染し、自らの命さえも危くするような文明発達とは、一体何なのか。命とひきかえにしてもいいほど、それは価値のあるものなのか。それはもはや限度を超えた狂気というものた。
自己実現を果した多摩川ベリのニワトリから学ぶべきことは多い。
ニワトリの皆さん、今度一度、面会に行きます。そのときまで元 気でいてください!!

2020年4月1日


第1回

『バンザイなこっちゃ』(2005年 ゴマブックス)
「分かっちゃいるけど悟れません」(P187~192)より

私は野生動物の生態を描いたドキュメンタリーが好きで、テレビでそういった番組をやっている時はなるべく見るようにしている。
そろそろ高校を卒業しようかという私の次男が、小学校の上級生だった頃、そんな動物番組を一緒に見たことがあった。
テレビには、草原をちょこまかと動き回る、可愛いウサギが映し出されていた。その時私は、ある知り合いを思い出した。彼はウサギを飼っていたのだが、そのうちウサギが子供を産み、それがまたたく間に増えてしまって悲鳴をあげ出した。引き取ってくれる人もなく途方に暮れていたのだが、ついにある解決法を思いつく。それは、食べてしまうという事であった。思い切って料理してみたら、仔ウサギの肉はやわらかくておいしい。それからウサギが仔を産むのが楽しみになったというのだ。
最初その話を聞いた時は、「何をするのや、このオッさん。えげつないなあ」と思ったのだが、よくよく考えてみれば、結局は処分されて生ゴミのように捨てられるのだから、それよりは人間の胃袋に入った方が、ウサギも成仏できるというものではないかと納得した。そう言えばあのオッさんは元気にしているかいな、などと思いながら画面を見ていると、突如大ワシが登場する。
ウサギを追い回すどうもうな大ワシは、正に憎々しげな悪役そのもの。がんばれウサちゃんの声援もむなしく、大ワシに捕らえられるウサギ。鋭い大ワシのつめがガシッとウサギの体に食い込み、鮮血が飛び散る。思わす目をそむけたくなるような残酷な場面。
「自然は残酷やなあ」ポツリと息子がつぶやいた。お父さんとしてはチョッとあわててしまう。残酷なだけが自然じゃないよ、と教えてあげたいのだが、うまく言葉にならない。仕方がないので、黙って画面を見続けていた。やがて悪役大ワシは、ウサギをつかんだまま悠然と飛んで行く。どこへいくのであろうか。やがて辿り着いたのは、大ワシの巣であった。
ここで落ち着いてウサギを食らうのかと思いきや、何とそこには腹をすかせたヒナたちが待っていたのだ。うれしそうにウサギの肉をもらうヒナたち。すると、あれほど憎々しげに見えていた悪役大ワシの顔が、何だかとってもやさしい「いい人」風に見えてきたから不思議である。そしてさきほどの強者が弱者をいたぶるような残酷な場面も、ヒナのために体を張って闘う大ワシの、愛情溢れる感動のスペクタクルという事になってくる。同じ場面でも、見る角度を変える事によって、こんなにも印象が違ってくるのだ。
何やらうれしそうな息子の顔を見て、私もホッとした。大きな命の流れから見れば、そこには被害者も加害者もなく、全ては互いに命を支え合うための、愛の行為という事になる。
弱肉強食というが強者がめったやたらに弱者を襲っていては生態系は成り立たない。空腹でなければ、いくら目の前をウサギが通っても大ワシがそれを襲うことはない。
命を支えるためにのみ、相手を捕え食する事が許されるのである。娯楽やスポーツのために他の生き物を殺したり傷つけたりするのは、人間だけではないか。
しかし私がウサギなら、やっぱり食われるのは痛いだろうし、ご免被りたいなどと思うのは凡夫の悲しさであろうか。ライオンとヒョウに二度も食われかけたテレビタレントがおられたが、頭がい骨がかじられるような音がその時聞こえたと言うぞ。悟りをひらいたキリストはんやお釈迦さんならどうされるのであろう。ニッコリ笑って「さあ食べなさい、お腹の肉のほうがやわらかいと思うよ」と我が身を差し出されるのであろうか。ああありがたや、ありがたやである。(このバチ当たりが)
さて、私はペットとして鳩を二十羽ほど飼っているが、毎日一時間ほど運動のため鳩小屋から出してやる。エサの合図の笛を吹けば、エサほしさに鳩はすぐ小屋に帰ってくる。これを舎外運動というのだが、四月頃になると、なぜかカラスが舎外中の鳩を襲い出す。鳩は水浴びが好きで、庭に水をはったタライを置いてやると、先を争うように入っては水の中で羽をバタバタさせながら遊んでいる。五日に一度ぐらいのペースでさせてやるのだが、水浴び直後の鳩は羽がぬれているせいか、少々飛びづらそうにしている。特に我が家の鳩はレース鳩と違って、あんまり飛ばないズングリムックリのドイツ鳩。
カラスは頭が良ろしい。その水浴び直後をねらってくるからたまりません。三羽もやられてしまった年もある。どうも四月頃はカラスの繁殖期らしく、恐らく巣には、腹をすかせたヒナたちが待っているのだろう。
「自然界には被害者も加害者もない。さあ遠慮せず、我が家の鳩を食らえ」と気取った事を言っている場合ではない。竹ザオの先に黒いビニールのゴミ袋をくくりつけた、撃退用グッズを振り回してカラスを追い払うのである。その姿は我ながら情けないものがある。
ヒゲを生やした六十近いええ年をこいたオッさんが、カラスに向かって大声をあげながらビニールのついた竹ザオを振り回すのである。何というおぞましさ、そこには悟りからはほど遠い凡夫の憐れむべき姿があるばかり。
事情を知らない近所の奥さんが、そんな私を気の毒そうに眺めている。その顔には「前からおかしいとは思っていたが、やっぱりあの人‥‥」と書いてあるのです。それにもめげず、ゴミ袋つきの竹ザオを必死で振り回す私。これがフォークの神様と呼ばれた男の姿であろうか。
嗚呼、悟りへの道ははるかに遠い!

2020年3月30日


ごあいさつ

私はこれまで数冊の本を書いているが、例によってサッパリ売れず、そのほとんどは絶版となっている。(謙遜ではないところがつらい!?)
しかし今、読んでみても「おもしろいな」と思える文章もいくつかあり、このまま眠らせておくのはもったいないなと、以前から気になっていたのだが、ホームページに発表してはどうだろうと思いついた。(要するにゴミの活用、リサイクルね)
世の中はコロナ騒ぎで外出もままならず、ヒマを持て余しておる御仁も多いだろう。ひょっとしたらヒマつぶしのお役に立てるのではと思い、絶版になった本の中からおもしろそうな文章を選び、これから順次、記載にしてゆく事にした。
興に乗れば新しい文章も書いてみようかとも思っている。
軽い気持ちで読んでいただければ幸いである。(読んで却ってイライラしたり憂鬱になってもワシャしらんからね)
それではよろしく!

2020年3月30日 岡林信康